コーポレート・ラダー

いつも同じ言い訳になってしまうのだが、書こう書こうと思いつつ3週間経ってしまった。相変わらずバタバタとした軟禁生活(これはちょっとしたオクシモロンっぽいな)を送っているものの、漠然とした心の渇きが癒されることはやはりない。それでも、昨日は久しぶりに同僚と集まって、ささやかにワインを空けたら、久しぶりでやはり染みるものがあった(ニュージーランドピノ・グリ。初めて飲んだが美味だった)。緊急事態宣言中ではあるのだが、会社の人がどんどん入れ替わるので、結局四半期に一度くらいはgoing-away partyをやっている。人によってはこれを反社会的と呼ぶのかもしれないけれども。

 

☆☆☆

 

2年半シャカリキに働いてきたからなのか、そろそろチームを持ってみないかという話が出てきている。COVIDが終わったら海の向こうに行こうと思っていたところではあるけれども、僕が働いている会社はプロモーションについて極めて厳格な運用をしているため、一度こういうチャンスを逃すとおそらく次はずいぶん遠くになってしまう。そういうわけで、来週か再来週あたりにpeople managerになるための試験を受ける予定。今でも泣きそうなほどバタバタしているのに、複数名の人事管理なんか入ってきて大丈夫かよと思わないでもないのだが、なんとかがんばりたいところである。さて、次回のエントリを書く時には、2年半ぶりのpeople manager復帰が決定しているだろうか。

 

☆☆☆

 

2年間地味に続けてきた英語発音教室で、ようやく目標としていたスコア(90)まであと一歩というところまできた。今日のmeasurementは89.95(なんでこんな細かいのかは不明。体操みたいである)ということで、quasi-nativeのレベルということなのだが、相変わらず英語がきちんと話せているとはとても思えない。相変わらず映画を見るとわからないところだらけである。とはいえ、UK発音を2年間しっかりと勉強してきたこともあって、RPの美しさがよく理解できるようになったのは収穫だったなと思う。トニー・ブレアのインタビューなんか見ると、「おおーカッコいい…」と思うのだが、今のトレーニングを続けることで、彼のように話せるようになるかというのは不明である。

 

☆☆☆

 

今年は久しぶりに梅酒を漬けてみた。これを飲み終わるころには、次の目的地に行けるとよいのだが。

連休はどこに消えた

連休中に書くと言っておきながら、結局まだ書けていないので、申し訳程度にいくつかのアップデートについて書いておく。

 

☆☆☆

 

大型連休という名の自宅軟禁奨励日は、娘の学習サポートと多少の仕事、読書で瞬く間に過ぎていった。とはいえ、20年来読みたかった『怒りの葡萄』を読み通せたという点では、実り多い時間だったと言えるかもしれない。プロットとしてはやや退屈ではあったけれども、苦難の時代のアメリカを生きる民衆のやるせなさや強さは充分に感じることができたし、物語と交互に登場するスタインベックの独白は、有無を言わせぬ迫力に満ちたものだった。コロナもまた、世界のどこかで、これだけの普遍性を備えた芸術作品を生むのだろうか。

 

夏休みにはぜひ『ゴリオ爺さん』を読みたいと思う。年を重ねたからだろうか、普遍的なものへの憧れが年々強まっているような気がする。

 

☆☆☆

 

相変わらず長時間労働が続いている。連休明け一日目の仕事が終わったのは27時であった。もう40も近いのに、こんな働き方を続けているというのは本当によくないなと思う。仕事の罪深いところは、よくないとは思いつつも、やれば結果も出るし、ある程度認めてくれる人もいるので、中毒になってしまいやすいところである。日本人はこの準麻薬的活動を戦後75年ひたすらに称揚してきた――というのは言い過ぎかもしれないが、耶蘇教のように罪の一種として捉えてきたというのは少なくともないだろう。思えば、僕は30代のほとんどをPCとコーヒーとともに過ごしてきたのだ。なけなしの時間と体力を切り売りしながら。それ自体は否定できるものではない、少なくともそれらは多少の富を僕にもたらしてくれたのだから。ただ、これは都会で暮らす非人称的な外資系サラリーマンの人生であって、僕の人生ではないのだ――そんな気がする。

 

書けば書くほどミッドライフ・クライシスにはまっていく、そんな気もする。

 

☆☆☆

 

『秒速秒速5センチメートル』のモノローグを集めた動画。明里の声を聴いていると、自分が失ってきたものの大きさを感じて、妙にセンチメンタルになってしまう。声だけで郷愁をここまで掻き立てるというのは、もう天賦の才としか言えないなと思う。

 

www.youtube.com

Japan Times Weekend

日経新聞とともに、かねてより愛読してきたJapan Times on Sundayが、このたびJapan Times Weekendにリニューアルされたので、ごく簡単にレビューめいたものを載せておく。

 

Pros:

  • 配達日が日曜から土曜に変更された。だいたい週末しか読む時間がとれないので、これはありがたい。特に我が家は妻と交代で読むということもあるのでなおさらである。
  • Week in reviewの分量が多くなり、一週間のニュースがこれまでよりも詳細に記載されるようになった。

 

Cons:

  • 個人的には、サイズは前のタブロイド判のほうが好みである。コーヒーを飲みながら読むのにちょうどいいサイズだった。
  • New York Timesまではあまり読まないので、Japan Times on Sundayだけでもう少し値段を安くしてほしい。

 

ともあれ、同じように一週間のニュースをダイジェストで読める新聞は、僕の知る限り他にないので、おそらくはこれまでと同じように読み続けるのだと思う。

 

で、ちょっと今週号で気になったのが以下の表現。

 

Tadashi Yanai, chairman of CEO of Fast Retailing  CO., […], said Thursday his company was keeping tabs on its cotton supply chain to ensure none of its products are made with forced labor in Xinjiang.

 

一方で、例えばこのサイトだと、「政治的に中立的でいたい。ノーコメントだ」とのみ記載されている。

 

僕は別に柳井氏のファンではないのだが、さすがにこの後者のサイトでの切り取り方は悪意があるのではと思ってしまった。FRも叩けばいくらかの埃が出るのだろううが、経営者という立場からのリスクマネジメントとしては、おそらくこれ以上のコメントはできなかったのではないかと想像する。そのあたりを考慮せずに、ノーコメント→人権侵害!というような短絡的な推論を読んでしまう記事が公開されてしまうのは、やはりメディアとしてのintegrityに問題があるのではという気がする。もちろん、ウイグルで発生しているであろう問題を正当化することは、いかなる理由であれ許されるものでもないとは思うけれど。

 

☆☆☆

 

娘の中学受験サポートが、早くも佳境に入ってきた、、、というか、あまりにも基礎的な部分でスタックしているので、けっこう頭を抱えているところである。連休はどこか自然の多いところにいってのんびりしようと思っていたけれども、まだしばらく自宅にこもる日々が続きそうである。来年になったらオランダあたりでゆっくりドライブを楽しみたい、、、ちょっとまだ遠いな。

帰ってきたフレンチマン(ウルトラマンではない)

重い腰を上げて久しぶりにフランス語を鍛え直すことにした。かなり雑なプランではあるのだが、COVIDがある程度追い付いたところで、あっち方面のポジションにアプライしてしまおうという狙いである。妻ともいろいろ相談したところ、「まあいいんじゃない?」というスタートアップ然としたノリでとりあえず進めることになった。子どもの学校とかいろいろ懸念事項はあるけれども、まあ後で考えればいい。

 

で、久しぶりにL’amantをフランス語で読むと、けっこう読める。おお、やはり昔取った杵柄というのはバカにできないものだなと思う、、、のだが、「仏語一人つぶやき練習法」でボソボソと一人で喋ってみたところ、まあものの見事に口が忘れている。まあこのあたりは3か月くらいかけて地道に鍛え直すしかないだろう。考えてみると、僕が一緒に仏語を――というか哲学を――勉強した友人たちは、軒並みその道の専門的なポジションについていたり、人によっては教科書を書いていたりするのに対して、僕が今ここで「基礎会話からやりなおします」というのは、面白みの中にそこはかとないペーソスを感じさせるものがある。まあ仕方ない、僕は過去の15年を資本制とともに生きてきたのだから。

 

これは一種のミッドライフクライシスなのかもしれないな、と思う。僕が見ているのは、20歳のときに見ることのできなかった、幻想としてのune nation francophoneなのかもしれれない、と。それが分かりつつも、僕はそれ、あるいはここではないどこかに進むしかないのだろうという気がする。東京という街がかつて与えてくれた刺激やダイナミズムを、今の僕はほとんどと言っていいほど感じなくなってしまったからだ。あまりにも多くのものがここにはありすぎるのだ。

 

というわけでこの極めて個人的なプロジェクトは粛々と進めつつ、明日も英作文に勤しむ。早く連休が来ないかな。

山梨

この間ブログを書いたと思ったら、前更新をしたのがほぼ一か月前と気づいてけっこう焦っているところである。自分の怠惰さを責めるのはたやすいことだけれども、毎日毎日半ば無理をして仕事をしているのは自分自身知っているので、このことについてはとやかく言うまい。いずれにせよ年明けから2か月ですでにかなりバテているということで、緊急事態宣言も空けぬ中、山梨の温泉で羽を伸ばしてきた。あいにくの曇り空で富士山は見えなかったけれども、宿からは甲府盆地が一望できて、夜は町全体が宝石箱のように見えた。広い空と新鮮な空気はそれだけで相当程度のストレス解消要因となるようで、帰ってくる頃には肩のこりもずいぶん軽減されたような気がした。

 

本当は上記の件の詳細や、ここ2週間くらいにあったことについてつらつらと書きたいのだが、もう25時になろうとしているので寝ることにする。落ち着いて記事を書けるのは5月の連休になるだろうか。ということは、ここからは8週間のマラソンになるということである。長いな…。

まだ月曜だというのに

相変わらず深夜残業している。今日は月に一度の作文日でひたすら英語を書く日である。別に嫌いな作業というわけではないのだが、月曜からの深夜労働はやはり気が滅入る。どうも夜はダラダラと作業をしてしまう癖があり、本当によくない。あとポモドーロ・サイクル2回転の間になんとか書き上げたい。不思議なもので、こういうものは時間制限をうんと厳しくしたほうがなんとか書けてしまうものだ。というわけで、デカフェのコーヒーを飲みつつ、あともう一息。

 

☆☆☆

 

試験の合格から早10年以上、このたびようやく正式にCPAに登録した、、、のだが、笑ってしまうほど感慨はない。当時通った予備校のサポートを利用して手続きしたのだが、実体はサポートというよりはチーティング(ティーチング、ではなく)という感じで、テストなのに答えはすぐ見られるだの、事前に模範解答は配られるだの、「おお、マジか、、、」と思うようなことが多かった。まあ僕もライセンス登録をすることに、キャッシュ以外のコストを書ける気はなかったので、win-winといえばそうなのだが、曲がりなりにもそれなりの公的資格がこんな運用でいいのだろうか、という残尿感のような思いが残った。一方で、GMATを受けたときのようなヒリヒリするような緊張感をもう一度経験したいかと言えば、それはそれでNoなのだが。

 

☆☆☆

 

というわけでもう少し労働する。S&Pの値動きなんか見ている場合ではないのだ。

失われた感性と日常のNice to haveたち

また前回のエントリから2週間が経過してしまった。いつも書いていることだが、時間の流れは本当に早い。大人の暮らしはただでさえルーティンに陥りやすいのに、例によって行動範囲が極端に制限されているせいで、生活全体がマンネリ気味になっているのは如何ともしがたい。元々はこれくらいの年齢でキャリアの舵を大胆に切ろうと思っていたのだが、どうにも動きがとりづらい状態になってしまい今に至っている。正確に言えば、今でも無理すれば動きを起こせないこともないのだろうが、リスク・リターンを冷静に考えると、今という状況はあまりにも分が悪い。そういうわけで、いささかの飽和感を感じながらも、少なくとも平日の5日間は、しばしば睡眠時間を削りながらPCを叩き続けている。状況が状況なので、仕事があって、報酬にも特に影響が出ていないことがどんなに恵まれていることかというのは僕もよくわかっているのだが、今の状態を維持することが自分にとって是かと言えば、僕としての答えは否ということになる。

 

とはいえ、だんだん子どもたちも大きくなってきて、少しずつ自分の時間と呼ぶべきことが日常に返ってきはじめているのは喜ばしいことだ。子どもが親離れしていくのに寂しいという気持ちがないわけではないけれども、ここ10年ほど、自分を尖らせるための時間を確保することは著しく困難だったから、自分を健全な孤独に追い込めることのありがたみは身に染みてわかっているつもりである。一回のサラリーマンとして働いている自分でもそこに一定の葛藤があったのだから、創造的な仕事を生業としている人であれば、こうした日常の雑事が足かせになってしまうという感覚はより大きいのではないかと思う。

 

それにしても暗く、重苦しい世の中だ。いや、重苦しいというのは正確ではない――大東京という街にはあまりにも不似合いなほど、街が閑散としているのだ。空白といってもいいかもしれない。1929年のニューヨークもこんな感じだったのだろうか。しばらくして、この歴史的な事態が収まったあと、僕はいつか懐かしくこのカフカ的な街の風景を思い出すのだろう。そして、人もまばらなその風景の中でも、僕は地味に日常のnice to haveを改善していく――Philips電動歯ブラシを導入したり、作業スペースにホワイトボードを導入したり。それらは決してめくるめくような体験ではない。でもそうしたささやかなnice to haveを実践する以外に、今の我々に何ができるというのだ?