Summer Sunshine

時間ができたので少し書く。そう思えるのは、おそらく晴れ間が戻ってきたためだ。今年は梅雨が長く、熱海で目を覆うような災害があったこともあって、昨日までなんとなく気が乗らなかった。東アジア特有の、このじめっとした暑さが感じられると、「そうそう、これこれ」というような、何とも言えない高揚感がある。例によってほとんどの時間は自宅で内向的な暮らしを送っているのだが。

 

☆☆☆

 

ビジネススクール時代の唯一の日本人同級生が、某東証一部上場企業に執行役員として転職していたことを知る。確かにきらびやかなキャリアを持った人ではあるけれども、日系の会社(それも、けっこうな歴史のある会社)にボードメンバーとして30代で迎えられるというのは、これまで聞いたことがなかったので、僕としても新鮮な驚きであったし、けっこうな刺激になった。同時に、自分の周りでもいよいよキャリアがそのレベルにまで達する人間が出てきたのだなという、妙な感慨のようなものもあった。雑な感想ではあるが、うーんこれは僕も負けてはいられないな、というところである。一方で、いかに日経新聞に彼の記事が載っていようとも、彼が吉原での遊び方をかの異国で熱っぽく語っていたことを僕はよく知っている。

 

☆☆☆

 

仕事が少し落ち着いたからだろうか、久しぶりに旧い恋のことを思い出して、ここ一週間ほど胸の痛みが続いている。40も目前に迫って、こんな鈍い痛みを抱えながら生きている人というのは、世間的にもけっこう珍しいのではないか。歳は重ねているけれども、僕は少しは人間として成熟のほうに近づいているのだろうか、と思う。収入は多少増えたし、ビジネスタイトルも少し仰々しくなったけれども、僕は相変わらず、熱いコーヒーを飲みながらPCを叩いて暮らし続けている。そこに崇高さや何かしらの超越的な意味を見出すこともなく。

 

生きねば、と思う。おそらくそうした芯の強さのようなものがなければ、これからやってくる40代の波を乗りこなしていくことは難しいだろう。そのために、僕はまたおそらく能う限りの努力をしなければいけないのだろう――おそらくはこれまでとは異なる仕方で。

 

☆☆☆

 

CorrsのSummer Sunshineの中に"In coffee city"という歌詞があるけれども、あれはシアトルのことなのだろうか。自分の中では15年以上に渡って解決されていない問題のひとつである。

コーヒーと雨の日曜日

というわけで、7月より久しぶりにpeople managementをすることになった(ちょっと『夢想』の頭の書き出しみたいだ)。とはいったものの、例によって実務の量が減るわけではないので、しばらくは今行っている業務に人事管理が付加されるということになる。ちょうど業務量maxの6月がなんとか終わったので、7月はteam development関連の業務を細々と進めるつもり。そういう領域の仕事がだんだん楽しくなってきたのは、まあ年相応と呼べるかもしれない。

 

☆☆☆

 

よく知られた話ではあるけれども、東京の生活費は、比較対象に挙げられるような世界都市――例えば、ニューヨークやロンドン――に比べると相当に安い。例えばこのサイトでは、東京の生活費はロンドンより28%安いとある。後者の二都市だと、住宅費はだいたい東京の3割増くらいだし、500~600円でまともなランチはまず食べられない。言うまでもなく、これはバブル崩壊20年以上に渡って日本を蝕んできたデフレーションのためである。その根本原因については、すでに様々に論じられているけれども、日本の企業が世界的に存在感を失ってしまったことがその一因であることは、おそらく衆目の一致するところだろう。例えば、1994年のFT 500 global rankingには、150社弱の日本企業がランクインしている一方、2020年度版では50社程度になっている。当然ながら、90年代に日本が占めていた位置に割って入ったのは中国である。

 

なぜこのような凋落が起こってしまったのだろう?少なくとも日本人は、90年代以降も、満員電車に揺られてあくせくと働き続けきたはずだ。ネガティヴに言ってしまえば、それはあくまで近視眼的な、「戦車に竹やり」的な努力の仕方だったのかもしれない。それは、日本、それも東京という限られたマーケットに極度にローカライズされたアプローチである。それを考えると、まさに目下の関心事項である中学受験というのは、そうしたガラパゴス的な局地戦の継続に過ぎないのではないのか?結局それが目指すところは、これまで我々がそうであったような、前時代的なホワイトカラーの労働力を生産するだけではないのか?そして、前々から思っているとおり、どこかで日本以外のスタンダードに目線を合わせる機会があるのであれば、そこで一気にリスクを取って飛び込む必要があるのではないか?モスバーガーで230円のアイスコーヒーをちびちびと飲みながら、そんなことを思った。

 

☆☆☆

 

7/4、コーヒーと雨の日曜日。この後は投票所に行く。とりあえずの市民としての義務を全うするために。僕が子どものころに思い描いていた大人の休日はこんなものだったかな、と思う。その幻想の「大人」の像に、僕はまだ追いつくことができていない。それはきっと、どこまで行っても追いつくことのできない、幻想としての大人なのだろう。そんなことを分かりつつも、どうにかもがいて生きていかなくてはいけないなと思う。諦めとほんの少しの希望を抱えて。

コーポレート・ラダー

いつも同じ言い訳になってしまうのだが、書こう書こうと思いつつ3週間経ってしまった。相変わらずバタバタとした軟禁生活(これはちょっとしたオクシモロンっぽいな)を送っているものの、漠然とした心の渇きが癒されることはやはりない。それでも、昨日は久しぶりに同僚と集まって、ささやかにワインを空けたら、久しぶりでやはり染みるものがあった(ニュージーランドピノ・グリ。初めて飲んだが美味だった)。緊急事態宣言中ではあるのだが、会社の人がどんどん入れ替わるので、結局四半期に一度くらいはgoing-away partyをやっている。人によってはこれを反社会的と呼ぶのかもしれないけれども。

 

☆☆☆

 

2年半シャカリキに働いてきたからなのか、そろそろチームを持ってみないかという話が出てきている。COVIDが終わったら海の向こうに行こうと思っていたところではあるけれども、僕が働いている会社はプロモーションについて極めて厳格な運用をしているため、一度こういうチャンスを逃すとおそらく次はずいぶん遠くになってしまう。そういうわけで、来週か再来週あたりにpeople managerになるための試験を受ける予定。今でも泣きそうなほどバタバタしているのに、複数名の人事管理なんか入ってきて大丈夫かよと思わないでもないのだが、なんとかがんばりたいところである。さて、次回のエントリを書く時には、2年半ぶりのpeople manager復帰が決定しているだろうか。

 

☆☆☆

 

2年間地味に続けてきた英語発音教室で、ようやく目標としていたスコア(90)まであと一歩というところまできた。今日のmeasurementは89.95(なんでこんな細かいのかは不明。体操みたいである)ということで、quasi-nativeのレベルということなのだが、相変わらず英語がきちんと話せているとはとても思えない。相変わらず映画を見るとわからないところだらけである。とはいえ、UK発音を2年間しっかりと勉強してきたこともあって、RPの美しさがよく理解できるようになったのは収穫だったなと思う。トニー・ブレアのインタビューなんか見ると、「おおーカッコいい…」と思うのだが、今のトレーニングを続けることで、彼のように話せるようになるかというのは不明である。

 

☆☆☆

 

今年は久しぶりに梅酒を漬けてみた。これを飲み終わるころには、次の目的地に行けるとよいのだが。

連休はどこに消えた

連休中に書くと言っておきながら、結局まだ書けていないので、申し訳程度にいくつかのアップデートについて書いておく。

 

☆☆☆

 

大型連休という名の自宅軟禁奨励日は、娘の学習サポートと多少の仕事、読書で瞬く間に過ぎていった。とはいえ、20年来読みたかった『怒りの葡萄』を読み通せたという点では、実り多い時間だったと言えるかもしれない。プロットとしてはやや退屈ではあったけれども、苦難の時代のアメリカを生きる民衆のやるせなさや強さは充分に感じることができたし、物語と交互に登場するスタインベックの独白は、有無を言わせぬ迫力に満ちたものだった。コロナもまた、世界のどこかで、これだけの普遍性を備えた芸術作品を生むのだろうか。

 

夏休みにはぜひ『ゴリオ爺さん』を読みたいと思う。年を重ねたからだろうか、普遍的なものへの憧れが年々強まっているような気がする。

 

☆☆☆

 

相変わらず長時間労働が続いている。連休明け一日目の仕事が終わったのは27時であった。もう40も近いのに、こんな働き方を続けているというのは本当によくないなと思う。仕事の罪深いところは、よくないとは思いつつも、やれば結果も出るし、ある程度認めてくれる人もいるので、中毒になってしまいやすいところである。日本人はこの準麻薬的活動を戦後75年ひたすらに称揚してきた――というのは言い過ぎかもしれないが、耶蘇教のように罪の一種として捉えてきたというのは少なくともないだろう。思えば、僕は30代のほとんどをPCとコーヒーとともに過ごしてきたのだ。なけなしの時間と体力を切り売りしながら。それ自体は否定できるものではない、少なくともそれらは多少の富を僕にもたらしてくれたのだから。ただ、これは都会で暮らす非人称的な外資系サラリーマンの人生であって、僕の人生ではないのだ――そんな気がする。

 

書けば書くほどミッドライフ・クライシスにはまっていく、そんな気もする。

 

☆☆☆

 

『秒速秒速5センチメートル』のモノローグを集めた動画。明里の声を聴いていると、自分が失ってきたものの大きさを感じて、妙にセンチメンタルになってしまう。声だけで郷愁をここまで掻き立てるというのは、もう天賦の才としか言えないなと思う。

 

www.youtube.com

Japan Times Weekend

日経新聞とともに、かねてより愛読してきたJapan Times on Sundayが、このたびJapan Times Weekendにリニューアルされたので、ごく簡単にレビューめいたものを載せておく。

 

Pros:

  • 配達日が日曜から土曜に変更された。だいたい週末しか読む時間がとれないので、これはありがたい。特に我が家は妻と交代で読むということもあるのでなおさらである。
  • Week in reviewの分量が多くなり、一週間のニュースがこれまでよりも詳細に記載されるようになった。

 

Cons:

  • 個人的には、サイズは前のタブロイド判のほうが好みである。コーヒーを飲みながら読むのにちょうどいいサイズだった。
  • New York Timesまではあまり読まないので、Japan Times on Sundayだけでもう少し値段を安くしてほしい。

 

ともあれ、同じように一週間のニュースをダイジェストで読める新聞は、僕の知る限り他にないので、おそらくはこれまでと同じように読み続けるのだと思う。

 

で、ちょっと今週号で気になったのが以下の表現。

 

Tadashi Yanai, chairman of CEO of Fast Retailing  CO., […], said Thursday his company was keeping tabs on its cotton supply chain to ensure none of its products are made with forced labor in Xinjiang.

 

一方で、例えばこのサイトだと、「政治的に中立的でいたい。ノーコメントだ」とのみ記載されている。

 

僕は別に柳井氏のファンではないのだが、さすがにこの後者のサイトでの切り取り方は悪意があるのではと思ってしまった。FRも叩けばいくらかの埃が出るのだろううが、経営者という立場からのリスクマネジメントとしては、おそらくこれ以上のコメントはできなかったのではないかと想像する。そのあたりを考慮せずに、ノーコメント→人権侵害!というような短絡的な推論を読んでしまう記事が公開されてしまうのは、やはりメディアとしてのintegrityに問題があるのではという気がする。もちろん、ウイグルで発生しているであろう問題を正当化することは、いかなる理由であれ許されるものでもないとは思うけれど。

 

☆☆☆

 

娘の中学受験サポートが、早くも佳境に入ってきた、、、というか、あまりにも基礎的な部分でスタックしているので、けっこう頭を抱えているところである。連休はどこか自然の多いところにいってのんびりしようと思っていたけれども、まだしばらく自宅にこもる日々が続きそうである。来年になったらオランダあたりでゆっくりドライブを楽しみたい、、、ちょっとまだ遠いな。

帰ってきたフレンチマン(ウルトラマンではない)

重い腰を上げて久しぶりにフランス語を鍛え直すことにした。かなり雑なプランではあるのだが、COVIDがある程度追い付いたところで、あっち方面のポジションにアプライしてしまおうという狙いである。妻ともいろいろ相談したところ、「まあいいんじゃない?」というスタートアップ然としたノリでとりあえず進めることになった。子どもの学校とかいろいろ懸念事項はあるけれども、まあ後で考えればいい。

 

で、久しぶりにL’amantをフランス語で読むと、けっこう読める。おお、やはり昔取った杵柄というのはバカにできないものだなと思う、、、のだが、「仏語一人つぶやき練習法」でボソボソと一人で喋ってみたところ、まあものの見事に口が忘れている。まあこのあたりは3か月くらいかけて地道に鍛え直すしかないだろう。考えてみると、僕が一緒に仏語を――というか哲学を――勉強した友人たちは、軒並みその道の専門的なポジションについていたり、人によっては教科書を書いていたりするのに対して、僕が今ここで「基礎会話からやりなおします」というのは、面白みの中にそこはかとないペーソスを感じさせるものがある。まあ仕方ない、僕は過去の15年を資本制とともに生きてきたのだから。

 

これは一種のミッドライフクライシスなのかもしれないな、と思う。僕が見ているのは、20歳のときに見ることのできなかった、幻想としてのune nation francophoneなのかもしれれない、と。それが分かりつつも、僕はそれ、あるいはここではないどこかに進むしかないのだろうという気がする。東京という街がかつて与えてくれた刺激やダイナミズムを、今の僕はほとんどと言っていいほど感じなくなってしまったからだ。あまりにも多くのものがここにはありすぎるのだ。

 

というわけでこの極めて個人的なプロジェクトは粛々と進めつつ、明日も英作文に勤しむ。早く連休が来ないかな。

山梨

この間ブログを書いたと思ったら、前更新をしたのがほぼ一か月前と気づいてけっこう焦っているところである。自分の怠惰さを責めるのはたやすいことだけれども、毎日毎日半ば無理をして仕事をしているのは自分自身知っているので、このことについてはとやかく言うまい。いずれにせよ年明けから2か月ですでにかなりバテているということで、緊急事態宣言も空けぬ中、山梨の温泉で羽を伸ばしてきた。あいにくの曇り空で富士山は見えなかったけれども、宿からは甲府盆地が一望できて、夜は町全体が宝石箱のように見えた。広い空と新鮮な空気はそれだけで相当程度のストレス解消要因となるようで、帰ってくる頃には肩のこりもずいぶん軽減されたような気がした。

 

本当は上記の件の詳細や、ここ2週間くらいにあったことについてつらつらと書きたいのだが、もう25時になろうとしているので寝ることにする。落ち着いて記事を書けるのは5月の連休になるだろうか。ということは、ここからは8週間のマラソンになるということである。長いな…。