ライフコーポレーション(8194)のビジョンについて

一応夏休みに入ったので、日常で気になっていたテーマについて小文をいくつか書いてみようと思う。

 

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ライフコーポレーション(8194)は、スーパーマーケット「ライフ」を主に関西・関東にて展開する小売企業である。売上高ベースでの業界順位は1位、プライム市場上場ということで、控えめにいっても大手の一角と呼んで差支えないだろう。僕の住んでいる地域はわりとスーパー「ライフ」(以下”ライフ”で統一)が多いこともあって、僕も毎日のように店舗に足を運んでいるのだけれど、一ユーザーとしてずっと気になっていることがあった。同社のビジョン(英語)である。そのビジョンは、同社の展開するベーカリーの一角にこう記載されている。

 

LIFE’s vision is to be valued by our customers, valued by our staff, valued by the communities, in which we work.

 

 これはおそらく、同社のウェブサイトに記載されているビジョン、「ライフ全店舗がお客様が『最も信頼される地域一番店』になる。『信頼』とは、『信用』されて『頼り』にされること。『お客様からも社会からも従業員からも信頼される日本一のスーパーマーケット』を目指す」のエッセンスを英訳したものと思われるが、元の日本語はともかく英語はちょっとお粗末と言わざるを得ない。

 

気になる(改善したい)ポイント

  • 受動態:ある程度フォーマルな英語の書き方を学んだ人であれば、「受動態は原則として避ける」というルールを基本として記憶していると思うが、ここではあろうことか自らのアイデンティティを受動態で記載してしまっている。このことが含意しているのは、自らの存在価値を他者からの視点・認知に委ねてしまっているということであり、穿った見方をすれば、経営側として社会に提供すべき価値がしっかりと固まっていないという印象を与えかねない。少なくとも教養のある英語ネイティヴであれば、そのあたりのニュアンスを感じて首をひねるはずだ。
  • Redundancy:”value”という言葉が3回も繰り返されるため、ややくどい印象が感じられる。一件パラレル構造になっているためゴロがいいように見えるが、この構造であればvalueという言葉を使用するのは一度でいいはずである。
  • 最後の関係代名詞以下の部分:文意から先行詞は“communities”とわかるものの、ややいびつな印象を与える。

 

My two cents - 僕だったらどう直すか

 

このあたりはいろいろ好みもあると思うが、僕だったら以下のような感じにするのではないかと思う。

 

LIFE’s vision is to be the finest supermarket, valued by our customers, our staff, and the communities.

 

ポイントをいくつか記す。

  • 日本語のビジョンと英語のそれを比べると、「日本一のスーパーマーケット」という言葉が抜けてしまっているため、”the finest supermarket”としてこれを目指すべき姿として書き出す。
  • 元の英語版では”in which we work”と記載されていたが、もし元の英語の先行詞が”communities”なのであれば、特にこの文に新しい情報は与えられていないように見えるため、削除(なお、おそらくそうではないと思うが、英語版で参照されていた先行詞がライフの職場そのものを意味するのであれば、supermarketとworkplaceを並列で書くのがよいだろう)。
  • Value以下のパラレル構造については、同語を動詞ではなく形容詞としてrepurposeすることで、そのまま残すようにした。

 

翻って自分の仕事の話で恐縮だが、企業戦略の仕事をする上で、このあたりのネーミングセンスや概念を言語化するスキル、またそれを英語で表現する能力はとても重要で、下手をすると僕の仕事のリソースの30%くらいはそういう部分に費やされているかもしれない。対アメリカ人向けの交渉なんかだと、このあたりのニュアンスが承認の是非や予算の多寡に大きく影響するので、日本法人としては力を入れざるを得ない部分なのである。僕はこのあたりの仕事がけっこう好きだし、自分自身それなりに得意だと思うのだが、おそらくこれは高等教育で哲学を介して培ったものである。そうなると、もっと「皆様、もっと経営戦略部門に人文系出身者を」という人が出てくるのかもしれないが、こういうケースがどこまで一般化できるのかは正直僕もよくわからないところである。

40男、B'zを観て泣くの巻

17年ぶりにB’zを観に行く。彼らもいい歳だし(僕も人のことは言えないのだけれど)、来年の今頃には日本を出ている可能性があるので、観られるうちに一度観ておこうと思ったのである。幸い今年はベスト盤のツアーをやっているということで、タイミング的にもちょうどいい。というわけで、社会人になって覚えた、「困ったらとりあえず札束で殴る」という便利な技を即時実行し、1枚チケットを確保する(これが20日くらい前。チケットの高額転売は個人的に法律で全面的に禁止するべきだと思うのだが、ここでは触れない)。あっという間に当日になり、夕方会場に向かう。家から30分くらいなので、ほぼ日常の延長という感覚である。昔は有名どころのライヴに行くとなると、一日がかり、下手すると泊まりということでしかるべき祝祭感があったものだが、コンクリートジャングルの中では大抵のものは日常性の中に包含されてしまう。

 

コンサートが始まる。耳をつんざくようなディストーションの音が、一瞬で僕を過去へと連れていく。良くも悪くも――おそらくはポジティヴな意味で――、音があまりに歳をとっていないのに驚いてしまった。相変わらず暑苦して、やかましい、かつての僕が憧れた2人のままだったのだ。2曲目の”love me, I love you”では、イントロから1コーラスが終わるまで、肩を震わせて泣く。泣くような曲じゃないのに、おかしなものだ。おそらく僕は、この曲を演奏する彼らの中に、かつての自分――おそらくは中学2年生の――の姿を観ていたのだろう。往年のヒット曲が続き、”Calling”でまた嗚咽。「今までもこれからも約束などすることはないだろう」という、彼らの詞の中でもっとも好きな一節で涙が止まらなくなる。40代でもこんなに泣けるんだなと思った。奇しくもというべきか、やはりというべきか、この日最も涙腺に響いたこれらの2曲は、どちらも僕が中高生だったころの曲だ。

 

一方で、2時間も聴いていると、だんだん耳も慣れてきて、いろいろなところが気になるようになってくる。例えば、一部のバラード曲ではギターの音量が大きすぎて明らかにバランスを欠いているように聴こえたし(このあたりはバンド内のパワーバランスがPAにまで影響していることを感じさせる)、演奏上のもたつきも散見された。そして、彼らがこの2時間強で僕に気づかせた最も重要な点は、もはや僕自身が彼らの音楽の中に留保のないコミットメントを捧げることができないという事実である。畢竟、自分にとっての彼らの音楽は「過去への憧憬」であっても、もはや「今を生きるためのそれ」ではないのだ。その点、いいか悪いかは別として、彼らの「変わらなさ」は、逆に言えば「大人のための音楽ではない」とも換言できるだろう。とはいえ、僕は稲葉浩志トム・ウェイツのようになってほしいわけではない。おそらくは彼の「変わらなさ」と暑苦しいギターこそが、彼らのアイデンティティなのだから。自分の中でそうした見切りをしつつも、90年代の残滓を求めてコンサートに足を運ぶ――おそらくはそれも偏愛のひとつの形なのだろう。ともあれ僕にとっては、人生の走馬灯のような2時間強であった。

 

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先日受験したフランス語の試験(DALF C1)はなんとか合格していたものの、あまりにもギリギリの点数ということもあり、まったくと言ってよいほど征服感が得られていない。こちらについてはまた稿を改め、夏休みの時間を使って反省をしておきたいと思う。

灼熱を生きる

おそらくは、もともと苦手なエアコンを一気に浴びてしまったせいなのだろう、久しぶりにちょっとした夏風邪を引いてしまった。が、その日は終日重めのレビューが入っていたので出社せざるを得ず、なかなか厳しい一日を過ごすことになった。僕の働いている会社はとにかく会議中に読まなければいけない文章が多く、議論に入るまでの前段階までに相当量の頭のリソースが必要とされる。そんなこともあって、頭がボーっとした状態だと、文書の要点をつかむまでも時間がかかってしまい、有益な(=クリティカルな)フィードバックをするのが難しいのである。ここから得られる教訓のようなものはほとんどないのだが、強いていえば、「健康第一」、そして「健康状態は業務パフォーマンスに相当程度影響する」という、小学生でもわかりそうな話である。

 

☆☆☆

 

翌日も体調はいまいちだったのだが、昼間からチームビルディング(という名の飲み会)ということで、都内某所のグランピング施設を訪れる。都心からほど近い距離ながらも、見事にレイドバックな雰囲気であり、おそらくは20歳前後と思しき若者たちがパーティ(らしきもの)を楽しんでいた。こんなところで昼間から好きな女の子に膝枕とかしてもらったら最高だろうな、と思った。が、現実にはすでに僕は40歳を過ぎており、賃金労働者の宿命としてビールを飲まねばならない。ちなみに、前述のとおりロケーションとインフラはすこぶるよかったのだが、バーベキューというフォーマットもあり、料理はけっこうラフであった。

 

久しぶりにチーム内外のいろいろな人と話し、マイクパフォーマンスも行う。「いやあ、銭湯に行ったら間違って裸でフロントに出てしまいまして、、、云々」。体調が悪かろうがなんだろうがアグレッシブに攻められるのは、過度に内面化されたサラリーマン的規律のなせる業なのだろうか。かと思えば、「あの、実は困っていまして。妻が出ていってしまって」などと、村上春樹の小説のような実話の相談にも乗る。とはいっても、僕は幸いにしてそんな経験はないし、ビールも入っているので、ほとんど話を聞くだけである。正直、このエピソードのインパクトが強すぎて、途中からチームビルディングというよりは個人相談会みたいな様相を呈していた。

 

☆☆☆

 

小さい子どもを持つ宿命として、最近は近くの区民プールに足繁く通っている。多くのプールがそうであるように、そこではちょっと時代がかったポップスがよく流れているのだけれど、なんと急にThe Final Countdownが流れてきてニヤニヤしてしまった。いつから僕はハードロックという音楽に滑稽さを覚えるようになってしまったのだろう。いやでも幼児向けプールにThe Final Countdownはナシではないけれど、ネタではあるよね、というのは間主観的にけっこう賛意を得られると思うのだけれど、どうなのだろうか。そんなことを言うと、Crazy Trainはどうなのとかいう議論になって終わらない話になってしまうのだが。どうでもいいか。

深夜の半裸スクワット(時々ポルノ)

6月以来仕事が閑散期であり、いきおいなんとなくハリのない日々が続いている。4年近くも、火のついたダイナマイトをジャグリングし続けるということを続けていたために、マイルストーンがちょっと遠くに置かれるとなんだか物足りない気がしてしまうのである。一方で、世間的に見れば恵まれた環境にいるというのは間違いないので、この夏は黙って爪を砥ごうと思っている。もちろん次のチャンスを伺いつつも。

 

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ということで具体的に何をしているかというと、メインで英語・フランス語を学習しつつ、気分転換に筋トレをするという極めて地味な生活をしている。最近新しく導入した手法(というか媒体)は①幼児向け番組、②インタビュー素材のふたつで、どちらもひたすら観る→シャドウイング→使えそうな表現は全部Ankiに入れてストック・繰り返しという地味な作業を続けている。①の幼児向け番組は、日本で言えば「おかあさんといっしょ」とか、「しまじろう」みたいなものなのだが、どちらの言語でもけっこう聞いたことのない・わからないものがバンバン出てくるので、「僕は20年以上も何をやってたんだ(≒「なぜオレはあんなムダな時間を…」)という軽い絶望感を味わうのにぴったりである…というのは半分本気、半分冗談で、子供向け番組は家庭で使われる慣用表現が多いわりにスピードがそこまで早くないケースが多いので、リスニング・シャドウイングの素材としてはぴったりなのである。とはいえ、当然大人としての話し方も磨く必要があるので、②も併用する必要がある。幸い、今はyoutubeだけでも良質な素材が山のようにあるので、媒体に困るようなことはない。ちょっと脱線するが、同じような文脈でポルノビデオもけっこう練習に使えることがわかったのは最近の収穫であった。世の東西を問わず、いわゆる「素人モノ」のビデオは女の子のインタビューから始まるのが常なのだが、この自然なインタビューの中に、「ほーそう言うのか」というような表現だったり、いわゆる18禁の言葉が出てきたりするので、これはこれで勉強になるのである。そういうビデオを見ながら、辞書をせっせと引いている人というのは、この広い世界でもあまりいないのではないかという気がする。

 

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例年そうなのだが、この時期になると過去の辛かった記憶が毎日のようにフラッシュバックして辛くなる。暑さがなにかしらの感情のトリガーになるという現象自体は我ながら興味深いのだが、影響を受けるのが自分自身ということもあり、正直たまったものではない。未だにそれに対してどう対処するのが適切なのか、自分自身答えが出せていないのだが、とりあえずの慰めとして、僕は毎晩半裸でスクワットをしながら幼児向け番組(時々ポルノ)のシャドウイングをしている。何も知らない人が客観的に25時の僕の姿を見たら、半分ホラーに見えるんじゃないかと思う。どうでもいいのだが。

 

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今年の夏は語学をゴリゴリ掘る予定のため、あまり読書の時間はとれなそうなのだが、森有正『遥かなノートル・ダム』とAkira Mizubayashi, Une langue venue d’ailleursは読みたいなと思う。どちらも仏語という大きな山の、はるか高みにいる先達たちによって書かれたものだ。僕ももう人生の折り返しを過ぎたところだけれど、僕が関わっている複数の分野のそれぞれでの「仰ぎ見る存在」たちは、ともすると波が少なくなりがちな人生の晩夏から秋の始まりを、力強く生きていくための意思を与えてくれるような気がする。とにかく生きていくんだよ、と。

梅雨のつれづれ

取り立てて書くべき事項も見当たらないのだが、例によってあんまり書かないのもこのブログの趣旨に反しているので(何しろ"diary"だから)、身の回りのことをいくつかメモ程度のレベルで記載しておく。

 

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大学院時代の友人と上野で会う。日曜の上野公園は、家族連れを中心に多くの人で賑わっていた。彼は元気そうではあったものの、正規雇用のポストがやはりなかなか見つからず苦労している様子だった。なんとかよい道が見つかりますように、という思いながらも、「ああ、マトモに就職しておいてよかった…」と思ってしまう僕は冷たい人間なのだろうか(ここでBGMのブランキ―が流れる)。ともあれ、午後の気だるさのなかでちびちびとアイスコーヒー(水出し)を飲むのはよいなと思った。そういうのを人は幸せと呼ぶのかもしれない。

 

ちなみに彼女の名前は出なかったし、出さなかった。40代にしてほんのすこし進歩したようが気がした。

 

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フランス語の試験が終わった一方で、6月は仕事がまれにみる閑散期であり、いきおいのんびりとした日々が続いている。3時くらいに「後は家でやります」と帰宅してしまうこともしばしば、といったところである。そんな中で何をしているのかというと、英仏平行での語学の勉強を相変わらずゴリゴリとしている。とは言ってもやることは非常に地味で、帰り道の光景を歩きながらひたすら描写したり(「五反田の街角を行く中年の男女が笑みを浮かべながらラブホテルに入っていった」、とか)、ひたすら辞書を引いたり、発音の練習をしたり、シットコムを観たりしている。どちらも死ぬまでヘタクソのままなのだろうけれど、そういうものがあるのも幸せの形のひとつなのかもしれない。同僚がテスラの乗り心地について幸せそうに語っている一方で、僕はその種の喜びを辞書のなかに見出していることを考えると、まあ安上がりな人間だなという気はする。

六月の温い雨に

本当は昨日書こうと思っていたのだけれど、疲れてしまって筆が進まなかったので、申し訳程度に最近あったことを簡単に記載しておこうと思う。

 

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フランス語の試験を受けに板橋に行く。我が家から電車で30分もかからない距離なのだが、普段あまり公共交通機関に乗らないこともあって、久しぶりにずいぶん遠くまで出かけたような気分になる。前にかの駅で降りたのはおそらく5年以上前だったと思う。

 

指定された会場に向かい、教室に入る。僕を驚かせたのは、何よりも受験者のdemographicであった。男性はほとんどが学生と思しき人々(なぜか社会人経験の有無はだいたい見ればすぐにわかる)、女性はそれにシニアな方々が加わった感じで、いわゆる働き盛りの男性は僕以外には見かけなかった――少なくとも僕の観測範囲では。これは、かの言語がすでに立身出世のためのそれとは社会的にみなされていないことを含意している(と思われる)。英語は例外としても、例えば中国語や韓国語だったら、受験者層の顔ぶれはもう少しバラエティに富んでいるのではないか。あくまで見たことはないので想像するしかないわけだが。

 

試験本番。一応解答用紙は全部埋めたのだが、出来がどの程度なのかさっぱりわからない。どうもボラティリティの高い試験のようだし、やれることはやったので、結果を待つのみである。

 

ちなみに、口頭試験は日を改めて行われた。「オーバーツーリズムの影響について」というお題について30分ほど話す。「なぜCO2を抑制する必要があるのかしら?」と試験管。「温暖化への影響を軽減するためだと思います」、と僕。たぶん人工知能のほうがよっぽどマトモな回答をするのだろう。こちらも出来は不明。それにしても、飯田橋に来るとどうもノスタルジックになってしまってよくない。坂の町にそぼ降る雨は、沈殿していた僕のいくつかの記憶たちを鮮やかに浮かび上がらせていた。喚起される鈍い痛み。記憶の中の彼女はいつまでも25のままだ。

 

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会社は人がけっこう変わってしまった(減ってしまった)ので、改めて決起集会ということでチームで焼肉を食べに行く。そそくさと帰ろうとしていたところ、「風呂行かへん?」と上司から申し出があったので、健全な組織人である僕は、黙って最寄りのスーパー銭湯についていく。「やっぱり飲みの後は風呂ですよね」というような感じで。この日一番ヒヤヒヤしたのは、入浴しようと全裸になり湯船に行こうとしたところ、間違えてフロントに出てしまったことであった。たぶん酔っぱらって判断力が鈍っていたからだと思うのだが、さすがにこんなところでなんとかチンレツ罪とかに問われたらシャレになったものではない。そんなわけで、肝を冷やしつつも、滞りなく入浴を済ませ、エビアンをちびちびと飲みながら家路に着いた。

 

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自宅の近くで上野千鶴子澤田直両氏の公演があったため、ぜひ見に行きたかったのだが、チャイルドケアで時間がとれず。よく言われる話ではあるのだが、資本制の渦の中で一定のfamily commitmentを抱えながら、いわゆる人文学のためにリソースを割くのはやはりなかなか困難である。それだけに贅沢であるとも言えるのだが。僕のDaseinは、おそらく高層ビルの底のあたりで静かに眠っている。

Obituary from Canada

幽霊アカウントを残しているFacebookに久しぶりにログインする。特別な意味があったわけではない。トップページを見ると、先日韓国で結婚式を挙げた友人の子ども時代の写真が飛び込んでくる。2か月も経つのにまだお祝いモードなのかと一瞬思ったのだが、目に入ってくる単語はそれには似つかわしくないものだった――”RIP”。僕は言葉を失う。意味が飲み込めず、呼吸が浅くなる。日常の瓦解。

 

いくつかのポストを読むと、彼は愛犬を救うために急流に飛び込み、流れに巻き込まれて帰らぬ人になってしまったとのことだった。この記事を書いている今でもそれが本当にあったことなのかまだ信じられないのだが、スクリーンに映る文字と彼のWhatsAppの最終接続時刻は、彼がもう彼岸のほうに旅立ってしまったことを無情にも告げている。でもそこに涙はない。正確には「まだ」、ない。感情が追いついていないのだ。

 

マドリードでの深夜のグループワーク中、彼からかけられた言葉を思い出す。”You’re the most committed man I’ve ever seen”… いや、君ほどじゃない、いま彼と話ができるのであれば、そんな言葉をかけただろう。月並みな言葉だけれど、いいやつだったのだ、本当に。僕がここから学ぶべきこと――おそらくそれは、一日一日を、自分を彩ってくれる一人一人に感謝しつつ、精一杯生きなければいけないということだろう。もちろん、彼が生きたその生を、自分の単純な教訓に還元してしまうことの暴力性は自覚しつつも。

 

この痛ましい事故は当地のcommunity paperでも大きく取り上げられている。その中のひとつは、彼のパートナーのインタビューを引用して、記事をこう結んでいる。“Every day he planted seeds of love in everyone’s heart.” おそらくは僕もその種を受け取った一人なのだろう。生きねば、と思う。